わたしと読書

わたしは読書がすきだ。趣味というより、生活に近いとさえおもう。

気づけば、身近なものであった。小学生のころは、図書室に行き、卒業までにここにある本をぜんぶ読むぞ、とおもったものである。
ちょうどハリーポッターがはやっていたが、
そのころからメジャーなものに対する反発があったのか、はたまた予約して待つのがおっくうだったのか、手にとることはなかった。また、家の近くに祖父・祖母の家があり、そこにも本がたくさんならんでいて、むずかしそうなものは、大きくなったら読むぞ、と意気込んでいた。いちばんおぼえているのは、1匹の犬がなにかの拍子で月にいくことになってしまい、そこで生活するロボットたちと交流をふかめ、また地球へともどってくる、というはなしである。はたしてなんというタイトルだったかは、さだかではない。

中学生の1年生のときは、3年生の教室があつまる校舎に図書室があり、こわくて近づけなかった。学年があがるととたんに行きやすくなり、部活を引退してからはよく本を借りにいっていた。

高校の図書室は、勉強するところに近かった。夏休み、部活を終え、おひるごはんを済ませた午後。涼しくここちのよい図書室で宿題をはじめたものの、すぐにねむくなってしまって、ひとねむりしてから取りかかったことをおぼえている。だいすきな川上弘美と出会ったのも、高校生のときであった。「離さない」という短編が教科書に載っていて、担当の先生がそれを取りあげてくれたのである。まさに運命的な出会い。わたしが大学で、国語学を学ぼうとおもったきっかけにもつながるであろう。ことばのとりこになってしまったのだった。それまでは、はなしの筋をおいかけるのがすきであったのだと思う。でもこの出会いから、わたしは、表現のしかたというものにも目をむけるようになった。

大学のころも、図書館は勉強するところ、という意味合いがつよかった。大学1年の冬、なにをおもったかわたしは、文學界を購読しはじめた。さいしょはつらかった。おもしろくもないはなしたちが、読んでも読んでも終わらないのである。雑誌ぜんたいの3分の1ほどが、単行本1冊くらいにあたるものを、月に1冊もどうして読んでいるのだろう。いまもわからない。読書は生活なので、修行でもあるのかもしれない。川上弘美を読んだら、つぎはドストエフスキーを読む。そうしたらまた川上弘美を読んでもよい。いつからか、じぶんにあまい読書だけではだめだ、と思うようになっていた。それはいいわるいというはなしではなく、読書の幅がひろがった、ととらえることができるかもしれない。

本を読み、すきな作家のすきな本がわかればそれを読みたくなり、影響を受けたときけばそれも読みたくなり、よくわからないけれど有名な作家ならば読まねばとおもい、かとおもえばすきな作家のあたらしい本がでている。いつになっても読みたい本は尽きることがない。それがまた、おもしろいことだ。