2024年5月のこと
今年はゆるやかに更新しよう、と思っていたら前回の更新からあっという間に2か月経ってしまった。読んでくれている友人が楽しみにしている、と言ってくれたので、やっぱり月に1回くらいはなにか書きたいなと思ってはいる。しかし、前回結婚した、という話を書いたが、ひとり暮らしではなくなってからどうにも書きづらい。夫は構ってほしいタイプのひとで、家にいてもふたりでなにかをすることを好む。本など読みたいときには、これから2時間ほっといてくれ、と宣言してから読むのだが、文章を書くのはなんとなくやりづらい。理由はわからないけれど、彼に見られたり知られたりしたくないという気持ちがある(こんなことを書いてしまっては、なおさらになってしまう)。
今日は、とくに予定はなかったのだが有給休暇を取得して、ひとり1日中出かけている。そして、めずらしくカフェでPCを開くなんてことをして、これを書いている。原宿の太田記念美術館で「月岡芳年 月百姿」を見て、タリーズでパスタを食べ、SOMPO美術館の「北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画」を見てきた。いまはアイスコーヒーをおともにベローチェに座っている。美術館のはしごはあたまもからだも疲れるのだが、今日みた展示はどちらも作品数が70点くらいだし、ひともそれほど多くなくゆったりと見ることができたし、あいだに休憩もはさめたし、疲れより充実感のほうがつよい。どちらの美術館もそれほど大きくはないのだが、落ちついて見ることができることが多くて好きだ。
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ここで最近行った展覧会を振り返ってみようと思う。
まずは麻布台ヒルズギャラリー「オラファー・エリアソン展」。オラファー・エリアソンは、たしか去年国立新美術館で開催されていたテート美術館展ではじめて知って、気になっていた。特に印象にのこっているのは、《瞬間の家》というインスタレーション作品。天井から何本かのホースが吊り下げられていて、そこからいきおいよく水が噴き出している。ホースは支えもなく垂れ下がっているだけなので、水の勢いに合わせて絶え間なくかたちを変えている。同時に噴き出た水も常に動きまわっている。展示空間は暗いのだが、つよい光が明滅しており、わたしたちは光っている瞬間だけ水のかたちを見ることができる。水はそのときだけ固定されたように目に飛び込んできて、そのかたちを見ることができるのはその一瞬だけ。それがとてもドラマチックで、非日常を体験させてくれて好きだった。いつまでも見ていたくて、しばらくさまざまな水のかたちを眺めていたと思う。ほかの作品やアーティストが話している映像などを見て、彼は作品をつくる準備をして、仕上げは自然のちからに任せていて、自然と協働して作品をつくっている/つくりたいと思っているのだなと思った。
東京都美術館「印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館蔵」では、アメリカの印象派と呼ばれる画家たちの作品をはじめてちゃんと認識して見て、めちゃくちゃいいじゃん!と思った。とくに好きだったのは、チャイルド・ハッサムの《朝食室、冬の朝、ニューヨーク》。何が、と考えてもぜんぜんことばが出てこないのだけれど、絵の前に立った瞬間、好きだと思った。ブルーのガウンの女性と黄色いチューリップの色合いがいいなあとか、静かな空気感がいいなあとか思うんだけれど、なにかわからぬ引力を感じた作品。〈窓〉シリーズのなかの1つということなので、ほかの作品も見てみたい。モネやルノワールなどいわゆる印象派の画家の作品も展示されていて、ウスターの《睡蓮》も美しかった。
国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」は、国立西洋美術館としてはじめての現代アートの展示だという。美術館のスポンサーである川崎重工への抗議が行われたことでも話題となっていた。ぜんぶ見るのに3時間くらいかかり、へろへろになった。竹村京《修復されたC.M.の1916年の睡蓮》の前に立ったとき、なみだが出そうになった。奥にモネの《睡蓮、柳の反映》があり、手前にオーガンジーと糸でできたこの作品が吊るされている。モネの睡蓮は上半分が欠けてしまっているのだが、竹村の作品はそれを補うようにつくられている。なみだが出そうになったのは、単なる修復を超えたうつくしさ、過去の画家との協働のようなすがたに感動したのだと思う。
山種美術館「花・flower・華 2024」。山種美術館にはじめて行ったのだけれど、とってもよかった。明治、大正、昭和、平成、時代の垣根を超えた花の作品が百花繚乱といったところ。いちばん好きだったのは速水御舟の《牡丹花(墨牡丹)》。うすいエメラルドグリーンのような緑と、墨の黒だけで表現された牡丹がめちゃくちゃかっこよかった。
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国立新美術館「マティス 自由なフォルム」、ワタリウム美術館「パーフェクト・カモフラージュ展」にも行ったのだけれど、ちょっと疲れてしまったので、また機会があれば書こうと思います。写真は、思わず撮ってしまった《修復されたC.M.の1916年の睡蓮》の展示のようす。