なにかを書きたいという気持ちはあれど、書くことを日常にできていないわたしは、書くことを目標にしたり、大きな情熱を持つものができたりしないと、書くことをつづけることができないらしい。社会人になってからは、プラス心の余裕がないと、書くこと以外もままならないと実感する。仕事が忙しかったり、プレッシャーが大きかったりすると、それ以外の時間は回復や生活に充てるだけで終わってしまう。
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最近の参院選に関する話題と、夫とそのあたりの話をしたことから、自分じしんの考えを言語化する必要があると思い至り、本来はひとに見せなくたってよいのだがなぜかこうして公開している。
ざっくりいうと夫は、他者をメリット/デメリットで判断するらしい。例えば、生活保護を受けている人は努力していないからそうなった、努力していないのだから、税金を使って保護する必要はない、メリットがない、と言う。わたしは、それに激しく反対の気持ちを持ったのだが、反論する根拠や材料がなく、感情の問題じゃん、と言われて終わってしまった。
でもぜったいに違うと思った。その先にはひとりひとりの人間がいて、他者からの意味付けやメリット/デメリットで切り捨てられていいわけがない。
彼の視点、かつ、メリット/デメリットの土俵に立てば、社会的弱者は切り捨て、より生産性がある立場の人々に保障なりをするのがメリットのように思える。でもよく考えれば、そもそもメリット/デメリットの土俵で語るべき問題ではない。しかしあのとき彼と話していたわたしは、メリット/デメリットの地平で戦おうとしてしまい、理由を見つけられなかった。その土俵には立たずに意見を述べるべきだったのだが、それができなかった。また語る材料を持たないことに気づき、不勉強を恥じた。
彼の意見はおおむね以下のようなことだった。
・生活保護を受けている人は努力していないからそうなった。努力していないのだから、税金を使って保護する必要はない。メリットがない。そういう人々じしんが努力をすればいい。
・人間以外の動物だったら弱い存在は切り捨てられるのだから、人間がおかしい。また海外でも手厚い社会保障をしている国ばかりではない。よって日本も社会的弱者を保護する施策は減らしたってかまわない。
・いまの年金受給者が年金を多くもらっていることに違和感はない。なぜなら、彼らは高度経済成長で身を粉にして働いてきたからである。努力した人々への報いはあるべきだ。
ChatGPTの力も借り、違和感を掘り下げてみる。わたしはなぜ、これらの主張に反対の意見を持つのか。ChatGPTからは、人間の尊厳は条件付きではないから。人を人として尊重するには、"役に立つかどうか"で判断していけないという倫理的な直観があるから。というような回答が返ってきた。合っていそうである。
わたしはこれまでに、人間の尊厳は条件付きではない、人はただ人として尊重されるべきだという思想を見てきた、学んできたからこのように思うのだと考えるが、では、どのような歴史的背景や思想があるのか。以下のような回答を得られた。
- カントの倫理学:「目的としての人間」
人間性を、決して単なる手段としてのみ用いるのではなく、常に同時に目的として扱わなければならない。人間はそれ自体として尊重されるべき「目的」である。 - ホロコーストと「人権」の再定義
第二次世界大戦(特にナチスによるホロコースト)は、「人間の価値を条件付きで決めた社会」が生んだ最大の悲劇。ユダヤ人、障がい者、LGBTQ、共産主義者など、「国家にとって役に立たない」とされた人々が抹殺された。その反省から生まれたのが、1948年の「世界人権宣言」。【世界人権宣言 第1条:すべての人間は、生まれながらにして自由であり、尊厳と権利において平等である。】生産性・貢献度・国家の都合ではなく、「生まれた時点で尊厳がある」という明確に宣言している。 - ハンナ・アーレント:「権利を持つ権利」
ホロコーストを逃れた政治思想家ハンナ・アーレントも、「人の役に立つかどうか」で命が選別された体験から、人権の根源について考察している。彼女は「人権とは、生きていることに基づいて持つべき“権利を持つ権利”である」と述べた。つまり、「国民だから」とか「生産できるから」ではなく、ただ「世界に存在している」ことが人権の根拠であるべきだ、という思想。 - 障害者権利運動:尊厳と生産性の分離
近年の障害者運動や福祉思想でも、「人間の価値を“機能”で決めてはならない」という原則がある。たとえば、「障害者自立支援法」や国連の「障害者の権利に関する条約(2006)」は、「支援することにメリットがあるか」ではなく、「人間としての生の尊重」が中心にある。これは、「生産性に基づく価値判断」が社会的マジョリティによって押しつけられてきたことへの反発。 - 宗教的背景:キリスト教・仏教・イスラームの共通点
世界の主要宗教でも、「無条件の尊厳」は繰り返し説かれている。
・キリスト教:「神の似姿として創られた人間」だから、すべての人は尊い(創世記1章27節)
・仏教:衆生はみな仏性を持つ(無差別な慈悲)
・イスラーム:アッラーのもとにすべての人間は平等であり尊厳を与えられている(クルアーン17章70節)
これらはすべて、「人が人を上下に分けてよい」という思想への強い否定でもある。
これも合っていそうである。人は人として尊重されるべきで、人間の価値を他人が判断してはいけないという主張に対する根拠はこれでいいだろう。
次に考えたいのは、弱者を助ける必要があるのか、なぜ私たちは社会的弱者を救おうとするのか。自分が弱者になったときにも助けてもらえるように、という考えもありそうだが、それだけではないと思う。
- 宗教・思想による影響(倫理的理由)
・ キリスト教:「貧しい者への愛」
西洋では、キリスト教が「貧しい人を助けることは神への奉仕」と教えてきた。中世ヨーロッパでは、教会が施し(チャリティ)を行う機関として機能していた
・仏教:「弱き者への慈悲」
アジアでは、仏教が「すべての命に慈しみを持つべき」とし、困っている人を見捨てるのは悪であるとされた。江戸時代の寺社も、孤児や病人への保護活動をしていた例がある。
→ 人類は古くから“道徳的な行為”として、弱者救済を正当化してきた。 - 産業化と都市化による変化(制度的理由)
・近代以前:「地域・家族が支える」が基本
昔の農村では、互助的な仕組み(ムラ社会)があり、共同体の中でなんとか助け合っていた。ただし、排除や差別も強く、「役に立たない」とされる人は見捨てられることもあった。
・ 近代以降:「個人化」と「都市化」の進行
工業化・都市化が進むと、家族や地域が担っていた支援が崩壊。代わりに国家や自治体が「公的に」弱者を保護しなければならなくなった。
→ 社会の仕組みが変化した結果、「見捨てると自分たちに被害が及ぶ」状況が増えた。 - 社会契約・民主主義の発展(政治的理由)
・19世紀以降:「万人の権利」という思想
フランス革命やアメリカ独立などを契機に、「すべての人に生きる権利がある」という考え方が広まる。国家は、その国民すべてを保護する責任がある、という考え方へ。
・ナショナルミニマム(国家最低保障)
第二次世界大戦後、英国などで「最低限の生活は国家が保障すべき」という理念が打ち出される(例:ベヴァリッジ報告)。日本でも戦後、「生活保護法」が制定され、国家が国民の命を守るという制度が整備される。
→ 「国民は国家に守られるべき存在」=現代の民主主義国家の大前提。 - 実利的・社会安定のため(現実的理由)
・弱者を見捨てると治安が悪化する
ホームレスや失業者が増えると、治安や公衆衛生に悪影響が出る。国家や自治体にとっては、支援の方が「コストが低い」場合も多い。
・「誰もが弱者になりうる」ことへの備え
病気、事故、失業、家庭崩壊…多くの人は人生のどこかで「社会的弱者」になる可能性がある。そのときに支えられる仕組みがなければ、安心して生活できない。
→ 「他人のため」であると同時に、「自分の安心」のためでもある。 - 人間の共感・本能的な優しさ(本質的理由)
社会的哺乳類である人間には、「共感」「助けたい」という感情が生得的に備わっている。幼児は本能的に、他者の痛みに反応して泣いたり、慰めたりする行動をとる。人間の進化においても、「助け合うグループが生き残った」という側面がある。
→ 「弱者を助ける」という行動は、むしろ“人間らしさ”の根幹にある。
3.で、なぜ国家が保障すべきという考え方になったかわからずに追加で質問。以下のような思想や歴史の積み重ねがあり、人類が選んできた価値観ということだった。
昔は国家や王は「神に選ばれた存在」とされ、民衆は支配される存在だった。しかし17世紀〜18世紀にかけて、ヨーロッパで「国家とは国民の合意で成り立つもの」=社会契約論が発生。ホッブズや、ロック、ルソーなど。「国家は国民のためにある」「国民の権利を守るのが国家の仕事だ」という思想の基盤となる。
18世紀末のフランス革命やアメリカ独立戦争を通じて、「すべての人は平等で、権利を持っている」という思想が広まる。最初は言論の自由、信仰の自由など、国家が干渉しないことを求める自由権が中心。次に19世紀末〜20世紀、貧困・労働問題が深刻化し、働けない人も生きる権利があり最低限の生活ができなければ自由も意味がないことから、「国家は放っておかず、国民を助けるべき」という社会権の考えが出てくる。
第二次世界大戦後、戦争と極端な排除主義を経て、「不平等や貧困が、戦争や差別を生む。もっと公正な社会をつくらないといけない」という反省から社会保障の政策が提案、支持されるようになった。
ここまで生成AIの力を借りて歴史や思想を振り返ってみると、中学生や高校生の社会や倫理の授業で習ったことばかりだ。人文系の学問に意味がないという意見もあるが、やはり意味があると思う。自分が苦しいから、不公平を感じるから、差別や偏った思想が生まれるし支持してしまうのだと思うが、これまでの人類の歩みを知れば、誤りを繰り返してやっとここまできたことがわかる。
ただ、わたしは自由に考えたり調べたりする時間があるからそう思うのだとも思う。恵まれている。世界では戦争も起きていて、ほんとうにその日生きるのに必死なひともいて、彼らに歴史や思想や、そこからくる理想をに耳を貸す余裕はないだろう。でもだからこそ、みんなが豊かになって学んだり考えたりできるようにすることが理想的な世界につながるのではないだろうか。
だいぶ大きな話になってしまったが、もうひとつ大事なことがあると思っていて、それは想像力だ。夫の意見では、「努力していないから苦しいのであり、脱するためには個々人が努力すればよい」ということだが、想像力が足りないと思う。家庭環境や教育機会など、そもそも努力以前の前提がひとりひとりちがう。自分が想像できないようなこともある、ということを想像すべきだと思う。
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考えをまとめるというより、生成AIを使って学んできたことの復習をしたログみたいになってしまった。でも、最近心のどこかでずっともやもやと考えていたことに道筋がつけられて少しすっきりした気がする。結論はないし、そのときの自分の境遇によっても思うことが変わってくるだろうから、ずっと考え続けることになることだけれど。
参政党についてもすこし触れておく。エコーチェンバーやフィルターバブルという言葉があるように、わたしがXで見るポストは参政党に反対する意見ばかりだ。わたしは反対するのがが正しい意見だと思うが、逆もしかりなのだろう。SNSによる分断。人間は見たいものしか見ない。インターネットの発達やSNSの浸透が、分断を生む温床になってしまっている側面はあるだろう。
排外主義や反移民から差別を助長するような姿勢、陰謀論や疑似科学への接近は、とても賛成できないし強く反対と言いたい。さっき書いたこととも重なるが、自分が苦しいから誰かのせいにしたいという感情の受け皿になってしまっているのだろう。でも誰かのせいにしても世界はよくならない。支持者には、耳触りのいい言葉にだまされないで考えてほしいと言いたい。
世界は成熟してきたはずなのに、なぜ近年、分断や排外主義が勢力を強める世の中になってきているのか。富の偏在・格差、努力が報われていかない社会、という背景がぼんやり浮かぶが、それはまた今度考えたい。










