旅行と方言のこと

 先日、家族と恋人と岡崎・伊勢へ旅行をした。岡崎は、母が「どうする家康」を見ており、その舞台のひとつである岡崎城を訪れたいと希望したため。もともと歴史に興味がうすい母だが、榊原康政を演じる杉野遥亮のファンであることをきっかけに「どうする家康」を見はじめた。伊勢は、何年か前に家族旅行で訪れたものの、お伊勢さんマラソンにより内宮に行くことができなかったため、再訪することとなった。

訪れた際の岡崎城

 わたしの実家は仙台なのだが、仙台といっても田舎、海のほうにあり、父は訛りの強いほうだ。地元ではたらいているからか、弟も訛りが強くなってきている。母もそれなりに訛っているし、わたしも家族と話しているとつられて濁音が多くなる。いつもなら「あそこにいた」というものを、「あそこ さ いだ」などと無意識に言っていることに気づいた。そんな家族の会話に放り込まれた関東出身の恋人は、ときどき困惑していたが、教えてもらって意味がわかるとたのしそうにもしていた。

 仙台弁(と括っていいものかわからないが、わかりやすいのでこう呼ぶことにする)の中には、標準語(こちらもこう呼んでいいのかわからないが、ここではこう呼ぶ)と単語は同じだが意味がちがうものがあり、それがよく使うものだったりする。知らない単語よりも、知っているけど意味がちがう単語のほうがむずかしいと、恋人は言っていた。旅行中に話題になったのは、「だから」、「いき(ぎ)なり」、「なげる」あたりだろうか。わたしもある程度の年齢までは、方言と知らずに使っていたと思う。大学生になるときには、さまざまな出身のひとが集まってくるため、伝わらない可能性があるから使わないように気をつけていた。
 「だから」は同意。「そうだよね」と同じ。ただ標準語では、他人の発言に対して「だから」と言ったら「だから何?」の意味になってしまう。「んだがら」などといかにも方言のように発音されればまだわかりやすいのだと思うが、「だから~!」などと言われると混乱するのだと思う。これは若い人でも使っているという感覚がある。
 「いき(ぎ)なり」は、旅行中に頻出していた。「急に」の意ではなく、「とても」の意。よく考えれば「すごい」、「めっちゃ」などと言うことが多いのだから、同じ意味の「いきなり」も頻出するのは当たり前か。ただ、「急に」のときも「いきなり」なので、「いきなり雨が降ってきた」になると、どちらの意味なのかは文脈がないとわからない。
 「なげる」は気づいたらわたしも発していておどろいた。「捨てる」の意味。

 「どけて」は、伊勢の旅館で母が弟に言ったことば。夕食のあとに部屋で飲んでいるときに、弟がふたつの布団にまたがって寝そべっていたのだが、じぶんの布団を使いたかった母が、弟に向けて言った。わたしには違和感がなかったのだが、恋人が不思議そうなかおをしていたので尋ねると、「どけて」とは言わず、「どいて」と言う、「どけて」と言われたら何をどけてほしいんだろうと思う、とのこと。たしかにそうかもしれない。この場合の「どけて」は弟が移動してほしいという意味、つまり「どける」と「どく」を区別せず使っている。ものを移動させるのも、ひとを移動させるのも同じ語彙。
 また、「こいつ」「そいつ」「あいつ」「どいつ」を、ものにも使うことに気づかされた。「そいづ/あいづとってけろ」と言えば、「それ/あれをとって」のことだし、「こいづうめえな」と言えば「これおいしい」のことだし、「おれのどいづや?」といえば「おれのはどれ?」ということになる。
 「どく/どける」にしろ、「これ/こいつ」にしろ、恋人からの指摘がなければ気づかなかった。仙台弁(少なくともわたしの家族のなか)では、違和感のない言い方。このふたつの事象から、仙台弁はひとともののあいだが曖昧なのだろうか、などと考えていた。「だれ」が「なに」と同じく感嘆詞として使われることもある。国語学を専攻していたが方言は専門としていなかったので、あまり明るくないことが悔やまれる。というか、すでにこんなことは指摘されていることなのかもしれない。ただ、実際の体験を通してそう思えたことが、なんとなくたのしかった。