2023年3月のこと

 先週の土曜日は3月11日だった。あれから12年ということになる。14時46分は恋人とポケモンGOをしているうちに過ぎてしまった。ここ何年かは、仕事をしていたり、休みであっても遊んでいたりして、地震が起きた時刻は、気づいたら過ぎていることが多い。そして、それでいいのだと、3月11日は日常でいいのだと思っている。

 わたしは宮城県仙台市仙台港の近くで生まれ育った。あの日津波の被害に遭い、生まれ育った家や小学校、祖母の家、公園など、何もかも当時のかたちで残っているものはない。先日久しぶりにまちを訪れたが、道も建物も何もかも新しくなっていた。もう5年以上前のことにはなるが、最後に訪れたときには、まだ記憶にある道のかたちをしていたはずだ。川は高い防波堤の向こうになってしまっていたし、小学校の跡地には丘が築かれて震災記念碑が建っていた。元祖日本一低い山は日本一低い山に返り咲いていた。これは知っていたことではあったけれど。もう山と呼べる高さではなかったが、登山道や下山道が設けられていて、あの山のことを忘れたくないと思っている人も少なからずいるのだと思った。

 もちろん、記憶を風化させてはならないと思っている。すべて忘れてしまってはいけないし、はるか未来にふたたび地震津波が発生しても、被害を受ける人は一人でも少なくなってほしい。だが、今回の震災の当事者たちが心穏やかに過ごせるなら、日常を取り戻して過ごすことができるなら、発生した時刻にみなが黙祷しなくたっていいと、わたしは思うのだ。


 「当事者」という言葉を使ったが、わたしの中には、当事者だけれど、当事者ではないという意識がある。わたしは津波を見ていない。あのときわたしは高校生で、春休みだった。午前中は部活の練習をして、午後も高校にとどまっていた。家に帰ることができたのは翌日で、変わり果てたまちを目の当たりにはしたが、津波そのものは見ていないのだ。わたしの両親や弟は、それぞれ仕事場や学校が津波の届く範囲、見える範囲にあり、津波を間近で見ている。でもわたしは見ていない。そのことがわたしを「当事者」から遠くさせている。

 そのあと、残っていた家の2階部分での生活、避難所での生活、狭いアパートでの生活、仮設住宅での生活を経験してきたが、それらは大変といえば大変だったのかもしれないが、お金なども含め、大変だったのは大人のほうだったろう。こどもだったわたしは、用意された環境に適応してきただけだ。まちを失った喪失感は人並みにあるし、近くに亡くなった人もいて悲しい思いもしたが、わたし自身はなにも失っていないし、怖い思いもしていないのではないか、そう感じてしまう。

 仮設住宅での生活の途中で、大学に進学して一人暮らしをさせてもらった。家族は仮設住宅に住んでいるのに、だ。わたしは恵まれている。過去問がほとんど解けなかった数学の二次試験が、わたしの受験した年だけ簡単だったのも、まちを失ったわたしに、なにかが味方してくれたのだ、運がよかったのだ、と感じている。実力が及ぼす影響はゼロではなかったはずなのに。最近はそうは思わなくなったが、大きなよかったことがあると、罪悪感と似た気持ちを抱いていた。文學界の連載で読んでいた小林敏明「故郷喪失の時代」にも「罪悪感」というワードが出てきていた気がする。掲載されていた文學界は処分してしまったので、いつか本を買って再読したい。


 トルコ・シリアで発生した大地震も心配だ。できることはないかと募金をしたが、その後の情報を追えていない。