おくれてきたなつやすみのこと

 10/12から明日、10/18までなつやすみを取得している。ほんとうは、10/13~15は旅行に行くはずだったのだが、運わるくインフルエンザになってしまったため家でのんびりするのがメインのやすみになった。いまとなっては、これもこれで充実していたと思うので、家でできる趣味をもっていてよかったなと思う。どうせだしブログを更新するぞと思い立ってみたものの書くこともないので、なつやすみのことについて書いてみる。

◇1日目
 実は誕生日だった。ほんとうなら恋人に祝ってもらっているはずだったのに、とちょっとさみしかった。ただ、予定がぜんぶおじゃんだ、といちばんかなしんでいたのは熱が高かった2日前くらいのことのような気がする。この日にはもう、家でなにをしようかななどと考えていたので切り替えがはやいというか、あきらめがよいというか。まだ微熱があってのどの奥がずっと乾燥しているようなかんじで時たま咳が出るので、ずっとマスクをして過ごしていた。Twitter(まだXと呼ぶことに慣れない)のタイムラインを延々見たり、録画していたバラエティ番組を見たり、眠くなったらひとねむりしたり、ほとんどベッドのうえでだらだらしたのんきな動物のようだった日。体調がわるいことをいいことに、うどんや雑炊のほかに、すきなだけ桃缶やアイスを食べていた。

◇2日目
 ほぼ平熱になり、家のなかでげんきにしていた。行った美術館の感想をルーズリーフに書いて、パンフレットや作品リストとともにおさめておくファイルと、読んだ本・観た映画の感想を書くノートがあるのだが、美術館のほうは3か月ほど前、本のほうは10か月ほど前で更新が止まっていたので、それらをせっせと更新した。10か月ほど前、つまり2023年になってから一度も読書・映画感想ノートをひらいていなかったらしい。1月や2月に読んだ本のことはこまかくおぼえていなかったので、その本をふたたびめくっているあいだに日が暮れてしまった。なんとか9月くらいまでたどり着いた。2023年になってから9冊と4作品しか読んで観ていなかったのが救い(?)。本はほとんどが文學界。その月の文學界を読まないと、べつな本が読めない、と趣味なのにひいひい言っている。ちなみにいまは9月号を読んでいる(いちばん新しいのは11月号)。
 ふと、感想ノートをふりかえってまとめてみたのが下の表。よくあることと言えばそうなのかもしれないが、社会人になってから数ががくんと減っている。1年目は半分くらいは研修で定時にあがっていたので、時間が取りやすかったのだろう、数としては多いままである。ここ最近は、年に30作品と思っているのだがなかなか目標に到達できないでいる。さて、2023年はどうなることであろうか。10月時点で13から、盛り返せるのだろうか。

◇3日目
 そろそろからだを動かすかと近所の川べりをさんぽした日。水辺はすきだ。どの季節でも水が光を反射したり、まわりの風景をうつしたりしている様子がすきだ。ひるまの光できらきらしているのも、夕方や夜になって、まわりの街灯のひかりが反射しているのもすきだ。さいきん気づいたのだが、絵画でも水辺がかがやいているものには特にこころをひかれる。
 また、毎年のことだが金木犀のにおいに触れ、秋だなあと思った。
 さんぽの帰りにはスーパーに寄って買いものをして、ひさびさにカレーをつくった。ナンやラッシーがついてくるインドカレーのお店にも2か月に1回くらい行きたくなるが、どっさりつくって何日も食べる家カレーもすきだ。カレーライスやカレーうどんやカレーとトーストで、今日もまた食べている。
 夜、気になっていた少女革命ウテナを見はじめる。1話から決闘シーンの「絶対!運命!黙示録!」の歌にやられる。6話くらいまで見る。

◇4日目
 掃除、洗濯、散歩をおこない、少しずつにんげんらしい生活を取り戻しはじめる。なぜか近所のGUでニットと帽子を買う。きのうつくったカレーとともにワインを飲み、夜中までウテナを見る。25話くらいまで見る。途中でベッドに寝ころんだらそのままねむってしまった。

◇5日目
 朝から夕方までウテナを見て、39話完走。めちゃくちゃおもしろかった。そのあと考察を読みふける。世界を革命する力ってなんだったんだ、ウテナはどうなってしまったんだ、など疑問は尽きないが、アンシーは救われたようなので、きっとウテナと再会してよき友として生きてゆくのだろうと考える。
 さいきんのものがたりは分かりやすく勝ったり救われたりするものが多いと感じるけれど、わからなさをそのままにしておくものがたりもいいなと思う。狭い範囲しか知らないくせに、「さいきんのものがたり」だなんて言ってしまっていいのだろうかとも思う。たとえばチェンソーマンなんかは、分からないまま第二部に突入しているではないか。さいきんはわかりやすいものがたりが好まれているという言説を、たいした例も挙げられないまま、信じこんでいるだけではないのか。どこかで見た言説を、なんとなく自分の中でもそんな気はするのだけれど、気がするだけでそうだと言ってしまっていいのだろうか。会社で書いた論文を、たまたま査読者として読んだ知り合いの先輩から、あいかわらず主張が弱いね、と言われたことは、わたしのこの迷いと無関係なのだろうか。なにかを論じたいときに、それはわたしの思い込みではないだろうか、ほかの主張をしているひとがいるのではないだろうか、と考えてしまうのはなぜなのだろうか。これは弱さなのだろうか。
 主張と主張するにんげんを切り離せないのは、あまりよくないことだとわかってはいる。たぶんそれは、じぶんがじぶんの主張を否定されたときに、じぶん自体を否定されたと思ってしまうからなのだと思う。自分が否定されたくないゆえに、自分の主張も強くできない。書いているうちに、じぶんの中の結論に近いものがでてきておどろいている。

◇6日目
 ふとした拍子にあたまの中で、「♪絶対!運命!黙示録!」が鳴る。国立西洋美術館キュビスム展を訪れる。ピカソやブラックの、灰色や茶色の時代はおもしろくないと思っていたが、すこし遠くから見たら重なりが見えたような気がしてなんだかおもしろかった。ロベール・ドローネーの《パリ市》が大きくて色彩もきれいでよかった。大きい絵画はそれだけでも興奮する。写真ではわからないようなおおきさを体験するのがだいすき。ジャック・ヴィヨン《行進する兵士たち》はステンドグラスのような、ふれたら割れる薄氷のような雰囲気がよかった。白とピンク色と紺色の色彩も印象にのこる。きもちに余裕があったので、ひさしぶりに常設展もふらふらできてよかった。

◇7日目
 明日まで休みだが、夜はたいへんだったプロジェクトの打ち上げがあるのでなんだか休みのような気がしなくてそわそわしている。