6月16日、京都にて

 

6月16日、Ribet Townsのレコ発ライブに行った。レコ発ということばをみずから発するのははじめて、だとおもう。ふだんからバンドや、音楽や、ライブといったものに親しんでいるわけではないけれど、たのしかった。

 

ちょっと書いてみて、わたしは音楽のことばを持っていないことに気づく。アコースティック、と言われても、いまいちぴんとこなかったほど(調べたけど)。キャッチーな歌詞ってどんな歌詞?京都と北欧のあいだってどこなの?ネオ・フォークって、なに!?そんな認識のわたしが書くライブの感想なので、視覚的要素や、ボーカルのひとに対する印象が多くなっている気がする。

 

どのバンドも切実だった。ふだんデスクワークがおおい仕事、生活をしていて、目の前でからだ全体でなにかを表現することを目にすることは、ほとんどない。目の前で演奏するひとびとに、切実さを感じずにはいられなかった。

 

1組目は、フライデイフライデー。メンバーみんなが、彼らのグッズなのだろうか、同じ柄を身につけていたのをおぼえている。それもあってなのか、おしゃれな印象。とちゅうではいった寸劇のあとの曲、歌詞のせいかちょっとアジアンな曲がノリノリでよかった。

 

2組目、Easy Yoke。ボーカルの男のひとの声がよかった。かっこいい。かおが会社の同期にちょっと似ている。そのくせ、MCはちょっとおちゃらけたかんじなのがずるい。この日のギャップにやられた部門、第1位。また、女性のボーカルのひとがクールっぽくて、そのくみあわせがなんだかフィクションみたい。
ボーカルの男のひとの印象がつよい。周りを巻きこむのがうまくて、こうやって前にでるのが自然にできちゃう器用なタイプなんだな、と思う。ぜんぶ最高の曲って言えちゃうし、なんか知らんひといるな?って言いながらチューニング(ってことばで合ってる?)できちゃうし、これじゃあかんな!って歌いなおせちゃう。さいごのは演出かもしれない。でも、その飄々とした態度のあと、一瞬でうたうモードにはいって、まっすぐな歌をうたう。めちゃめちゃ切実なうた。かっこよかった。

 

3組目、yuleは、Ribet Townsと似ているといわれることがある、と演奏をきくまえに教えてもらった。よくわからなかったけど、あんまり音楽を聴き親しんでいないわたしの耳では、だけど、イントロが似ている曲があった。たぶん、sleepless sleep とメトロか、ベッドタウンか、かな。
ちょっと神秘的なかんじ、透明なかんじ。服装の色味を、くすんだナチュラル系とでも言えばいいのか、そんな色味でそろえてきているところも、そういう雰囲気づくりにかっているのだとおもう。MCもそこまでしゃべらない。あんまり明かさないかんじ。ボーカルの女のひとの容姿、あとからみたTwitterのかんじ、セルフプロデュースがうまい。
ボーカルの男のひとが、演奏している間はぴょんぴょん跳ねるようにのりにのってるのに、MCになると途端に声がちいさくて、エッさっきのかんじはどこいっちゃったの!?とおどろいた。でもそれがかわいいのも否めない。ギャップにやられた部門、第2位です。
男女の声の相性がいいのかなあ、ボーカルの女のひとの声が透明ですきだった。あと、ぎゃんぎゃん盛り上がるかんじじゃないとおもっていたけど、わーっと演奏が盛り上がっていくところで、うわーっ、アツい!かっこいい!となった。透明なかんじとこのかんじが同居できることをはじめて知った。

 

そして、Ribet Towns。聴いたことがあったけれど、生できくのははじめて。げんきになれる曲だな、と思っていたけれど、生できくと、それではあらわせなくて、すごくかっこよかった。祝祭的なイメージを持っていたけれど、もっと生き生きしていた。あんなにたくさんのひとがひとつのバンドとしてステージに立つのを、はじめてみた。
そして、とにかくボーカルのあさよさんがかわいい!かおもかわいいんだけれど、ステージの上での魅せかたがうまい。くるくる動く表情や身ぶりに、思わず見とれてしまう。思わずじぶんもノリノリになってしまう。さらさらと揺れる、パーマのかかった黒髪のうごきにさえ、目をうばわれる。その髪をかきあげる仕草は、ずるい。
帰りにニューアルバムを買った。さっそく聴いている。通勤時に聴くと、やっぱり元気がでる。でもやっぱり、また生で聞きたいなあ。

 

こういうライブ、また機会があったら行きたいけれど、なにもしらない外部からは入りづらいので、だれかいっしょに行ってくれるひとを募集したい。入りづらい、というのは、これまで自分では音楽をやったことがなくて、聴くほうもそれほどではない故に、ふるまいかたもよくわからない、そういう層から見ると、ということを補足させてほしい。メジャーになって、わたしがきくようになったバンドっていうのは、どういう経緯をへて有名になるのだろう、それを教えてくれるひとも、募集したい。とにかく、めちゃめちゃにたのしい夜だった。

 

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仕事のこと

今年の4月から転勤になった。

 

去年の4月に東京にでてきて、慣れてきたのにな、とも思うけれど、どちらかといえば、たのしみである。

 

とあるプロジェクトにアサインされた。「アサイン」て、ちょっとかっこいい。2月中旬から、人手が足りないところにお手伝いに行っていたのだけれど、そうではなくて、ちゃんとしたメンバーとして。まだ1年もはたらいていないのに、トレーナーがいくからついていくというのでもなく、呼んでもらえた。

 

営業のひとに、おまえは優秀だよ、と言ってもらえる。上司にも、飲み込みがはやくてよくできる、と言ってもらえる。これから行くことになるプロジェクトのひとに、営業のひとがこいついいよ、と言ってくれて、上司にこのひとはどうなの?と話がいき、プロジェクト参加のはなしがでてきたそうだ。

 

転勤か、と思わないことはなかったけれど、それよりも、きてほしいと言われたことがほんとうにありがたい話だ、と思って、たぶん断る選択肢もあったのだろうけど、ぜんぜん断ろうとは思わなかった。

 

こんな新人も新人じゃなくて、もっと適任のひとがぜったいいるのに、周りから評価してもらえて、成長させてやりたいと思ってもらえて、こんなにうれしく、ありがたいことはない。

 

もちろんうぬぼれてばかりもいられない。だってほんとうに、どこに行ってもわからないことだらけで、勉強につぐ勉強で。

 

大学生のころ、マネージャーをしていたけれど、物足りなさを感じていた。勝っても負けても、ほんとうのところでは自分のことではなかった。もちろんチームが勝ったり負けたりしたら、それなりに嬉しさや悔しさはあったけれど。でも、わたしもプレーヤーとして、ほんとうのところで嬉しがったり悔しがったりしたかった。

 

だから、社会人になるのはけっこうたのしみだった。そしていま、わたし自身が評価されている!

 

「向上心のあるネガティブ」と就活のときに言われたことがあった。こういうとき、やっぱりそうだな、と思う。うれしいけれど、もちろんだめなところばかりだぞ、反省点もたくさんあるぞ、とささやくわたしがいる。でもそれは、言ったひともネガティブな意味で言ったのではなく、わたし自身もそうだとおもう。たぶん、仕事をするにあたって、バランスがとれている。というか、自分をぜんぜん信用していないから、常によくならなきゃ、と思っているだけなのだけれど。

 

きっと、たいへんなこともあるのだろうけど、評価してくれたひとたちの期待をうらぎらないためにも、ぜったいぜったい成長するぞ。一人前に仕事できるようになるぞ。

 

ああ、たのしみだな。

奇跡のよる

きのう、奇跡のよるをすごした。わたしにとっては奇跡で、きっと一生忘れないよるになる。

 

いまのわたしが形づくられるのに、もっとも大きな要素といえる、ほんとうに大切で大事なふたりがいる。そのふたりに面識はなく、高校の友人と、大学の元恋人である。わたしがだいすきなふたりが出会ったらぜったいにたのしい。会ってほしい。そう思っていて、ちょうどわたしを含めて3人で会うことができるタイミングが、きのうだった。

 

もしかしたら、もう二度とないかもしれない。少なくとも、きのうの場所で会うことは、ほんとうにもうないかもしれない。奇跡だ。ほんとうにたのしかった。みんなが純度100パーセントで話している感覚。

 

ふたりはとてもおもしろい。まっすぐに疑問をぶつけて、まっすぐに答える。でもそれだけに、わたしはつまらないな、とも思ってしまう。

 

原因としてはふたつ。自分に自信がないこと。他人からどう思われているかを気にしてしまうこと。

 

だから、本だったり映画だったり美術だったりにふれても、ポジティブな感想をいうことができるものの、マイナスな、自分がすきではなかった部分をいうことができない。だってわたしがわからないだけなのではないの、という考えが首をもたげる。また、たとえばつくったひとは、ほかの見たひとは、これがベストだと考えているのではないの、わたしはそれを否定していいの、とも考える。

 

でも結局それは、みずからの感じたことを否定しているだけなのかもしれない。気にしすぎなだけなのかもしれない。じぶんが否定されたくないから、しないようにしているのかもしれない。それを優しさだというのはたやすいけれど、やっぱり、そこから生まれるものもある。逃げているだけ、なのかもしれない。

 

ふたりの考え方はぜんぜんちがう。根本からけっこうちがう。けれど、疑問や自分の意見をぶつけることで、ほんとうにすばらしい場になっていた。お互いに、想像以上におもしろいひとだと言っていた。

 

他人と完全にわかりあうことなんてできないのだから、ごちゃごちゃ考えずに、じぶんの感じたことをそのまま思えばいいのだろう。

 

わたしもおもしろく、魅力のあるひとになりたい。だから、今年の目標に追加。

「自分の感じたことを、プラスもマイナスもそのままもつ」

 

ふたりともだいすき。これはもう愛だよ。いつかまた、あんなよるがあったらいいな。

 

今年の抱負

今年の抱負は、呪いを解くことである。

 

このころTwitterで、年末年始に実家や親戚の家に行くことについてのつぶやきを、さまざま見る。その中でも、容姿についてからかわれる経験が、ずっとこころにわだかまっている、という旨のことが、わたしにもあるなと感じている。これをだれかが「呪い」と呼んでいた。たしかにこれは呪いである。どんな場面でも、わたしはデブでブスでオタクで陰キャだというのが根底にうずまいている。

 

ただちょっとちがうのは、わたしは父にも母にもその他親戚にも、そう言われていたわけではないことである。むしろかわいいかわいいと育ててくれた。それだけに、こういうおもいに囚われていることが申し訳ない。

 

わたしを呪ったのは、まえの恋人である。とおもう。彼だけに責任をおしつけるわけではないが、その一端はあるとおもう。たとえば、彼は容姿を点数づけた。彼の格付けによると、わたしは「4点」。ちなみに自分自身は「6点」だそうだ。付き合って最初のころにそういったはなしをされ、彼が「上」、わたしが「下」という序列がついたようにおもう。あくまでもわたしの中で、のはなしだけれど。そういうのはよくない、と言いつづけた結果、だんだんとひとに序列をつけることをおもてだってはしなくなったが、わたしの中で、ついた序列、「4点」という点数は消えることがなかった。余談だが、それで言いたいことが言えなくなり、別れる要因のひとつになったとおもっている。

 

だから、ぜったい今度は、おまえが世界でいちばんだと言ってくれるひと、言いつづけてくれるひとをえらばなければいけない。そんなひとはいない、いるわけがない、だってしょせんおまえは、という不安は尽きないが、その不安こそが呪いなのだろう。ぜったいに、わたしがわたしを大切におもえるようにしてくれるひとをえらばなければならない。

 

もちろん、呪いを解くのは王子様ではない。あくまでもじぶん自身だ。まずは、自分の身を切るような発言をしないこと。どうしても自虐にはしってしまう傾向があるが、これはよくない。ずっとずっとよくないと思っているのにやめられない。まさかこれも呪いなのか。でも、今年はそれを断ちきる。断たねばならない。

 

見てろよ。

わたしと美術館

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美術館に行くことも、すきだ。さいきんはあまり描いていないが、もともと絵を描くのがすき、ということも関係あるとおもう。

じぶんの意志ではじめて美術館に行ったのは、高校生のころ、フェルメール展であった。フェルメールとはどのような画家なのかよく知らなかったが、まじまじと見つめて、絵のなかにもものがたりがあるのだな、この手紙を読むおんなのひとは、なにを考えているのだろう、と思ったりしていた。何人かおなじ展覧会に行った友人がいたが、みなばらばらに行き、すきにたのしんでいたということも、おぼえている。

大学生になり、なんと美術館が家から徒歩15分、自転車で5分、おまけに大学の目と鼻の先、という立地にあった。さいわいひまな大学生であったので、講義のあいまにふらりと美術館をおとなうことができた。平日のひるま、しかもいち地方都市であったので、わりあいに空いたなかで絵画を見ることができるというのは、ぜいたくなことであった。その近くには博物館もあり、高校生と大学生のあいだの春に見た、伊藤若冲はわすれられない。昨年東京でひらかれていたものは、あまりの行列に、ならぶ気がしょぼしょぼとうせていってしまった。あの緻密さとあざやかな色あいを、もう一度見てみたいものである。

もし、すきな画家は、と聞かれたら、わたしは、クロード・モネである、と答えるであろう。うつろう光や空気がうつくしく描かれる。彼のことをいつから知っていたかは、さだかではない。いつからか、印象派、という一派があることを知り、このましく思い、ひまな大学生という時間で、彼らの生涯や、どのような意識で絵を描いていたのか勉強してみたりした。原田マハ『ジヴェルニーの食卓』を読んだことも、もっと知りたいと思わせる要因になったのかもしれない。

夜行バスで行き、行った日の夜の夜行バスで帰るという、「弾丸東京美術館の旅」をしたことがある。モネの〈ラ・ジャポネーゼ〉、マネの〈笛を吹く少年〉を見たことをはっきりとおぼえている。どちらも、思ったよりおおきい。絵を美術館で見ることのたのしみのひとつは、そのおおきさにあると思う。本やネットの画像を見るだけでは、ぜったいにあじわうことができない。どの作品も、たいてい想像よりもおおきく、圧倒される。また、近づいてみると、絵具がもりあがり、筆のタッチを目にすることができることも、わたしはすきだ。とりわけマネやゴッホなどは、そのいきいきとした絵具のようすを見ることができ、とてもたのしい。ほんとうに描かれているんだな、というかんじがする。

今年東京にでてきて、行っても行っても行きたい展覧会がなくならず、ひまな週末がない。とくに世界遺産にもなった、国立西洋美術館なんかは、常設展示もたのしいので、企画展を見ておなかいっぱいになっているのに、ふらふらとひきよせられていってしまう。わたしのだいすきなモネ〈睡蓮〉のひとつがたいてい見られるので、お立ち寄りの際にはぜひ、見てほしい。さいきんは近代日本美術にも興味があって、どこかで時間を見つけて、勉強したいなとおもう。わたしにとっては、知識なしで美術館に行くよりも、ある程度時代背景やそのひとのことを知っていたほうがたのしいと感じるからだ。ますます週末の時間がなくなってしまう。たのしいことである。

わたしと読書

わたしは読書がすきだ。趣味というより、生活に近いとさえおもう。

気づけば、身近なものであった。小学生のころは、図書室に行き、卒業までにここにある本をぜんぶ読むぞ、とおもったものである。
ちょうどハリーポッターがはやっていたが、
そのころからメジャーなものに対する反発があったのか、はたまた予約して待つのがおっくうだったのか、手にとることはなかった。また、家の近くに祖父・祖母の家があり、そこにも本がたくさんならんでいて、むずかしそうなものは、大きくなったら読むぞ、と意気込んでいた。いちばんおぼえているのは、1匹の犬がなにかの拍子で月にいくことになってしまい、そこで生活するロボットたちと交流をふかめ、また地球へともどってくる、というはなしである。はたしてなんというタイトルだったかは、さだかではない。

中学生の1年生のときは、3年生の教室があつまる校舎に図書室があり、こわくて近づけなかった。学年があがるととたんに行きやすくなり、部活を引退してからはよく本を借りにいっていた。

高校の図書室は、勉強するところに近かった。夏休み、部活を終え、おひるごはんを済ませた午後。涼しくここちのよい図書室で宿題をはじめたものの、すぐにねむくなってしまって、ひとねむりしてから取りかかったことをおぼえている。だいすきな川上弘美と出会ったのも、高校生のときであった。「離さない」という短編が教科書に載っていて、担当の先生がそれを取りあげてくれたのである。まさに運命的な出会い。わたしが大学で、国語学を学ぼうとおもったきっかけにもつながるであろう。ことばのとりこになってしまったのだった。それまでは、はなしの筋をおいかけるのがすきであったのだと思う。でもこの出会いから、わたしは、表現のしかたというものにも目をむけるようになった。

大学のころも、図書館は勉強するところ、という意味合いがつよかった。大学1年の冬、なにをおもったかわたしは、文學界を購読しはじめた。さいしょはつらかった。おもしろくもないはなしたちが、読んでも読んでも終わらないのである。雑誌ぜんたいの3分の1ほどが、単行本1冊くらいにあたるものを、月に1冊もどうして読んでいるのだろう。いまもわからない。読書は生活なので、修行でもあるのかもしれない。川上弘美を読んだら、つぎはドストエフスキーを読む。そうしたらまた川上弘美を読んでもよい。いつからか、じぶんにあまい読書だけではだめだ、と思うようになっていた。それはいいわるいというはなしではなく、読書の幅がひろがった、ととらえることができるかもしれない。

本を読み、すきな作家のすきな本がわかればそれを読みたくなり、影響を受けたときけばそれも読みたくなり、よくわからないけれど有名な作家ならば読まねばとおもい、かとおもえばすきな作家のあたらしい本がでている。いつになっても読みたい本は尽きることがない。それがまた、おもしろいことだ。

前田司郎「愛が挟み撃ち」

気がついたら、1時間も半身浴をしていた。読みはじめたときは、なあんだ不妊の夫婦のはなしか、それで愛がどうこう言うのか、と思っていたけれど、めちゃめちゃに期待をうらぎられた。「水口に頼もうと思うんだ」から一気に過去のはなしにひきこまれていって、現在にもどり、ラストまで駆け抜けてゆく。

 

さいごの手前、俊介と京子が洗濯物を干しながら言い争うシーンがいい。洗濯物を干す動きとセリフのテンポがよく、生活のなかで起きているできごとという感じがする。リアルだと感じるが、洗濯機をまわしたり、洗濯物を干すのを手伝う夫が世の中にどれだけいるだろうか。俊介は、あまりにもふつうな男で、よくできた夫で、しかし、とてもある意味でとても冷たく、残酷な奴なのだと思う。その男が、「愛」と名づけるのも皮肉だ。

 

三角関係とも呼びがたい、矢印がめぐりにめぐる3人の関係。俊介と水口のからだが触れる描写がやけに多いと思ったらそういうことだったのか、と気づく。愛の結晶たる幼子を得るラストは、はたしてハッピーエンドなのか。ある意味ではそうも思えるが、京子の語口からは、彼女はそう感じていないだろうとも思える。俊介と京子はくるくると語り手を変えて話すが、いちども語らない水口は、いったいどう思っているのだろうか。

 

「愛」という単語を題にかかげるだけの青臭さと熱をもった作品であった。

 

まえにTwitterにあげたもの。